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by musasinokosugi
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今考えること。

 「過度の『餌やり』は生態系の破壊を招聘し『自然に』生きている鳥獣類にとっても決して良いことではない」という批判があることは私は餌播きを始める遥か以前から知っている。

 ここに単純に『自然』と言っても、人間によって破壊し続けられた結果の『自然』であるからには、「『自然』って一体何よ!?どこからどこまでが『自然』なのさ!?」という反論も当然成立するし、これはあって然るべき議論である。
『人類史』はどこからどこまでが『自然史』なのかという問題である。

「『火』を使うようになってからはいわゆる『自然』の範疇を超えている」という人もあれば、「いやいや我々は今現在に至っても尚自然過程の真っ只中にいるのだ」という人もいる。

 私は最近の私はちょっと深入りし過ぎているように感じる。趣味・娯楽の範囲を超えているのである。餌やりを続けて楽しいことなど殆どない。「自分が今日休めば雀たちがお腹を空かすのではないか?」とか考えるのはそれこそ「余計なお世話」と言うべきものだろう。

 「道具を使う」ということで言えば、よく引用されるのが、野生のチンパンジーが小枝を使って蟻を吊り上げる手法だが、それを言うなら仙台地方の「ハシボソカラス」などは走行する乗用車を使ってオニグルミを轢かせて割り、中の実を食べるという「文化」を持っているのだから、人間と98%までDNAが一致するというチンパンジーとどちらが賢いかわかったものではない。

 が、我々もチンパンジーもカラスも皆、「宇宙船地球号」の乗組員の一員である。

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「敵は制度、味方はすべての人間」という故・埴谷雄高のテーゼを、私はつい最近まで単純に考え過ぎていた。『死霊』第七章「最後の審判」で黙狂・矢場徹吾は、イエスはガリラヤ湖で弟子たちに大漁の魚を獲らせたじゃないかと論断し、釈迦に対しては断食前後に豆を食ったじゃないかと批判した。

 埴谷が「敵は制度」というときには、彼は国家だの何だのの「社会秩序」「社会的諸制度」だけを論難しているのではない。彼が許せないのは他の「生命」を殺して食べないことには一日たりとも存命出来ない我々の生存要件・存在様式(即ちシステム)そのものなのである。

 そうこう考えて来るとこのテーゼは前半と後半で矛盾し齟齬を生じることがわかる。
 埴谷は『平凡パンチ』という昔の男性週刊誌に ↓ 以下のように始まる短文を寄稿したことがあった。
 それは:

 近頃何が腹が立つと言って、腹の立つことばかりで、腹を立ててばかりもいられません。

 というものだった。
 埴谷が『味方はすべての人間』というとき、彼は(己を含めた)すべての人間を『許す』ことにしたわけである。ここの理解が私には欠けていたように思う。

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by musasinokosugi | 2012-10-11 19:11 | スズメ