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by musasinokosugi
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全学連・赤軍派・フロントetc.

①昨日の続きである。昨日私は1968年には自分はまだ東京に居なかったと書いたがそれは私の錯覚で、実はその秋には既に東京にいて、ただ外出することは殆どなく、ただひたすら自室に籠って悶々たる日々を送っていた。
 それで10月21日の翌日には新宿駅の様子を見に当時住んでいた中野から電車で行っているのである。

 機動隊が前日余程催涙弾を乱発したのか、駅構内はまだ幾分煙っていて、催涙ガスの臭気があたり一面に漂っていたことははっきりと記憶しているが、その後どうしたかはまったく記憶にない。駅から外には出なかったから、どこか別の場所へ行ったか、それともすぐ家に引き返したかのどちらかだ。

②全学連は当時Zengakurenという英語にもなったくらい世界的に知れ渡っていた。正式には全日本学生自治会総連合と言い、大別すれば三派系と民青(日共)系の二つの潮流があった。何も知らない人のために付け加えておくと、民青とは正式には民主(主義?)青年同盟と言い日本共産党の青年組織でこれは今もある。
 「サンパ」ばかりが目立つ御時勢だったので、彼ら民青もときに工事現場のようなお揃いの黄色いヘルメットを被って新左翼系の学生たちと対峙し、機動隊に対しては決して投げない石ころをガンガン投げ続けたりしていた。それが顔面に当たって大怪我をした学生を私は見ている。私は当時「ノンポリ」(これはノン・ポリティックスつまり政治には無関心・無関係の人間を指す蔑称)だったが、こういうことがあったから共産党~民青は嫌いになり、それは四十数年を経た今でも続いている。

③サンパの一翼を担うブント(社学同)は60年安保当時からあるいわば老舗で、これから別れたのが京大ブントを中心とした≪赤軍派≫である。彼らのうち一部幹部連中は日航機をハイジャックして北朝鮮に事実上亡命した。先鋭化し小数化した赤軍は栃木県のとある銃砲店を襲撃して猟銃数丁と弾薬を奪い、銀行強盗などもしただろうか、「京浜安保共闘」というこれも過激な小数組織と合体して≪連合赤軍≫を結成した。
 彼ら連合赤軍は逃亡の果て榛名山中に山岳アジトを形成し、そこで何人もの仲間を≪総括≫という名目でリンチ殺人して埋めた。彼らのうちある者は拘置所内で首を括り、ある者は服役し刑期を終えてから居酒屋を営んだりした。
 彼らが「浅間山荘事件」という警察との間の銃撃戦を引き起こしたのは仲間殺しの後、いよいよ行き場が無くなってからのことである。この銃撃戦はテレビ各局でライヴ中継された。

④ドストエフスキーが『悪霊』の中で描いたように、ある秘密結社が仲間内の結束をより強固なものにするためには、この≪仲間殺し≫は悪魔的ではあるがすこぶる有効な手段の一つである。無論こんな手法は一般市民には到底受け入れられるものではないから、この事件は全共闘運動を衰退へと導いた一つの大きな要因である。
 
 あれだけ隆盛を極めた全共闘運動を衰退させたもう一つの要因は『中核vs革マル』の内ゲバ(?)である。この両者の出自は同じ「革命的共産主義者同盟」(革共同)で、彼ら双方の幹部連中は若い頃連れ立って吉祥寺の故・埴谷雄高邸を訪問したものだと、これは埴谷自身が述懐している。
 
 文化人・作家等の有志が連名で、この中核対革マルの際限もない相互テロ=殺し合いを中止するよう呼びかけたが、両者は共に相手のことをスパイ呼ばわりして殺し合いを止めなかった。埴谷は勿論この声明文に署名したが、吉本隆明は「そんなのは無効だ。殺し合いたいのなら勝手にやらせておけ」と署名を拒否した。
 吉本自身の全共闘系との接点というかスタンスは、社学同(ブント)の「情況派」というところの集会では講演することがあったらしいが、私は行ったことがない。

⑤革マル派に関しては私は身近な接点が少なかったので詳しいことは何も知らない。彼らは「学習会」を重ねて仲間を増やして行くのが得意(?)のセクトで、デモをするにしても全共闘のようないわゆる「武闘路線」(と言ってもせいぜいのところ角材を振り回したり、石を投げたりする程度で、赤軍のように「革命には銃火器が不可欠だ」と銃砲店を襲うようなことはなかった。)とは距離を置いていたと思う。捕まるだけ馬鹿らしいという考え方かも知れない。

⑥革マル派からは「八派よれよれ」と揶揄された≪全国全共闘≫(←これは実は全共闘運動が下火になってから新左翼八派が中心となって結成した共闘組織であった。)の中には≪フロント≫(社会主義同盟)という組織もあった。これは元々は共産党から除名された者たちが起こした党派で、ウィキペディアにはこうある。

   ↓

 この組織の源流は、綱領草案に反対して反党分派活動をおこなったとして1961年に日本共産党から除名された春日庄次郎、内藤知周らが結成した「社会主義革新運動準備会」である。「準備会」から一部メンバーが分離し、1962年5月、春日庄次郎、山田六左衛門、安東仁兵衛らを中心に「統一社会主義同盟」(統社同)が結成された。当時の機関紙名は『平和と社会主義』だった。

「フロント」という名称は、「統一社会主義同盟」の学生組織「社会主義学生戦線」の通称「フロント」に由来し、これがこの党派全体の通称となった。

フロント派は、1960年代後半の全国での大学学園闘争の高まりの中で左右の対立が激化し、1969年の同盟大会でそれまで旗印としてきた構造改革路線の「止揚」を確認し、機関誌を『先駆』に改称した。同年、日比谷野外音楽堂で行われた全共闘結成大会に、主要セクトのひとつとして参加している。当時の中央委員会議長は朝日健太郎(同名のビーチバレー選手とは別人)で、在籍者としては仙谷由人、阿部知子、岡留安則などがいた。

その後、1970年12月に党名を「日本共産主義革命党」(共革党)に改称、1987年、さらに現在の「フロント[社会主義同盟]」に改称した。

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 以上引用終わり。
 全共闘についても触れる予定だったが、長くなり過ぎたので今日はこれまで。ちゃい。


by musasinokosugi | 2013-10-22 12:42 | 時事