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by musasinokosugi
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戦後は終わった。

①今大阪府の予算の都合が付いて内部公開が決定された「太陽の塔」は、1970年「大阪万博」の象徴として故・岡本太郎がデザインしたものであるが、万博自体は「1970年反安保闘争」へのアンチとして、少しでも闘争の盛り上がりを抑え込もうとした国が企画・立案したものである。「70年は東京の国会周辺ではなく、大阪の万博へお出掛け下さいよ♪ 政治の季節はお仕舞いにして、お祭りをしましょう」というわけである。

 その甲斐あってか私の親兄弟なども車を駆って東京から大阪へとすっ飛んで行った。

②その当時だったろうか、正確な年時ははっきりしないが政府は「戦後は終わった」というキャッチコピーをしきりに流布したことがある。もう≪戦後復興≫は終わったから、今後は更なる躍進を遂げるべき時代の開幕だと言うのである。

 このコピーを逆手にとって(ベ平連系だったか)「戦後は終わった、戦前が始まった」と切り返したコピーが流され、我々「一部の左翼がかった連中」(?)の間では結構受けていた。新左翼の運動が衰退し、大学のバリケードが解かれ、学生たちが黙って通学し授業を受ける静かな風景の先に待っていたものは、

モノ言えば唇寒い

・・・時代の到来である。

 ここでさて、新左翼系学生運動の衰退から終焉に関連して、当時の政府権力の側からの「弾圧強化」について少し触れておくと、1965年日韓闘争から始まって糸井重里が東京から参加した1967年の米空母エンタープライズ佐世保入港阻止運動に至る頃までは、学生運動家らが逮捕されてもいわゆる「三泊四日」で釈放(パイ)されることが殆どで、罪名も「道路交通法違反」(デモをしたから)や「公務執行妨害」(機動隊に逆らったから)といった程度の微罪(?)が殆ど大半を占めていた。

 新左翼に対して「暴力学生」という言葉が使われるようになったのはいつ頃からだったろうか、これは弾圧が強まるに連れて「過激派」という言葉に取って代わられたわけであるが、この過激派という言葉は元々はロシア革命時のレーニン率いるボルシェヴィキに冠せられた名前なのである。

 転機は当時の赤沢国家公安委員長に拠る最高裁判所への要請から訪れたと言って良い。
 彼は「我々治安当局が一生懸命暴力学生らを捕えても、裁判所が次々釈放してしまうから運動はいつまで経っても沈静化しない。裁判所はもっと我々に協力すべきである」と言ったのである。

 この治安当局からの要望は即刻受理され、以後裁判所は逮捕した学生らの拘留を次々限度の「23日間」まで認めるようになった。最高裁所長代行だったか、当時「横川の横車」というフレーズが一種流行語になった。彼は「ハイ・ガヴァメントの見地から治安当局に協力する」と言ったのである。
  
 「治安裁判所」の誕生である。
 10日+10日の拘留延長には、1.住所不定 2.逃亡の怖れ 3.証拠隠滅の怖れ の3要件の成立が必須とされていたから、これを学生ら全てに例外なく適用するのは相当な無理があったが、裁判所は法を曲げてこれを強行したのである。

 付けられる罪名にも「凶器準備集合罪」や「威力業務妨害罪」などが加わった。このうち「凶器準備集合」の罪は、立法時には「ヤクザ同士の出入り予防のためにしか使わない」という触れ込みだったが、実際に使われたのは学生運動専門だった。
 学生らは「凶器を準備して集合し」或いは「凶器の準備あるを知って集合し」たとされたのであるが、私が当時親しかった友人に聴いたところによれば、「そんなことはどちらもあり得ない。角材とかの有り場所を事前に知っていたのは極一部のリーダーたちだけであって、我々一般のデモ参加者は前の隊列にくっ付いて行っただけだ」とのことだった。
 威力業務妨害の罪というのは「平たく言えば、前列に従って線路の上を歩いただけ」とのことである。w

 拘留から≪起訴≫に至ると、1年や2年の≪独房暮らし≫は常態化し、どこの刑務所も学生らで満杯になった。(←尤もこれは後で述べるが「統一組」に限った話である。)
 
 ≪裁判≫にかけられてどういう対応を取るのかが一種「踏絵」となり、反省の意思を示す者は「分離組」と呼ばれて裁判は一日で終わって即執行猶予で釈放された。

 逆に反省するどころか「統一公判」を要求して裁判所相手にも断固争う姿勢を示した者らは「統一組」と呼ばれて、判決を待たずに実質上の≪実刑≫を課せられたわけである。私も東京拘置所とか中野刑務所へ何回も面会~差し入れに行ったものである。あっそ。w

③大正時代共産党対策として施行された「治安維持法」はやがて全ての国民の耳目と口を塞ぐ弾圧法として甚大なる威力を誇ってこの国を≪大東亜戦争≫へと否応なしに引き摺り込んで行く原動力となった。

「5・15事件」で一網打尽にされた共産党関係者の一人であった埴谷雄高は投獄された後「転向声明」を発して保釈されたが、ここに「転向」とは何も「国体たる天皇制が永続する」などと言明する必要はなく、「地球だっていつかは滅亡するのだから、天皇制もいつかは無くなるがしばらくは続くだろう」と認める程度で許されたというのである。

④戦前・戦中を通して非合法だった共産党は戦後自分たちを合法化したマッカーサー占領軍を「解放軍」として嬉々として迎え、やったことは「血のメーデー事件」などで火炎瓶闘争を繰り返したものである。

 火炎ビン闘争は「徳田球一(徳球)」等一部指導部の過ちだったなどと共産党は総括しているが、馬鹿を言ってはいけない。指導部などというものはいつだってどの政党だって「一部」に決まっている。民主党・野田一派も自民党・安倍執行部も「一部」なのである。


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by musasinokosugi | 2013-11-14 11:52 | 時事