人気ブログランキング |

時事、写真、身の回りの事、etc.


by musasinokosugi
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

タグ:大江健三郎 ( 3 ) タグの人気記事

 今年のノーベル文学賞の受賞者はベラルーシ共和国の女流作家に決まった。彼女はソ連時代の共和国の状態やロシアになってからのチェルノブイリ事故のことを題材に書く小説家ということで、言ってみれば反ソ(反露)的社会派作家らしい。

 これまでに日本人でノーベル文学賞を受賞したのは川端康成と大江健三郎の二人だけであるが、毎年候補に上がっていながら今回も選に漏れた村上春樹については自称ハルキスト達や村上春樹コーナーを設けた書店経営者達は非常に残念がっていたと、そういうニュースが流された。
ハルキスト達は文学賞が発表される前から集まって《祝賀会》の準備をしていたが、受賞を逃したことで自棄酒の残念会となった。笑って「来年があるさ♪」と言うだけならまだしも、街頭インタビュー・取材では泣き出すファンの顔も捉えていた。

 故・吉本隆明は晩年「現代日本文学を読み解くには村上春樹と村上龍の両村上を読めば足りる」との極論を展開していた。吉本の分析に拠れば春樹が《自己表出》、龍が《指示表出》の代表である。(⇦この吉本要語に関しては《言語にとって美とは何か》を参照されたい。)

 私は自慢ではないが、ベラルーシの女流作家の作品も村上春樹の作品も一度も読んだことが無い。私が小説を読んだのは若い頃だけの話だから、川端康成や大江健三郎の初期の作品は読んだが、村上龍の芥川賞受賞作『限りなく透明に近いブルー』などはパラパラと見た程度、ましてや村上春樹作品に至っては本屋で立ち読みしただけである。その時の感想?はというと「何だこれ、ワープロ文書じゃないか」という失望感に近いものだった。

 テレビではある文芸評論家が「村上春樹作品は《自意識》の追求と表明であり、だからこそ世界五十ヶ国の言語に翻訳され、それこそ世界中の人々に支持されているのだが、その代償として《地域性》を失い謂わば《無国籍》の小説になっている」のだと解説していた。
 ハルキスト達も村上春樹作品の自我と自分自身の自我とを重ね合わせて読み浸っているのだろうか。彼らは村上春樹のノーベル賞が欲しくてたまらないのだろうか。《スウェーデン・アカデミーの権威付け》がないと春樹作品の価値が世界的に認定されていないことになるのか。私にはそんなハルキスト達が《付和雷同型のミーハーの集まり》に見えて来る。村上春樹作品が好きなら好きで構わない。が、屋根裏部屋で独り閉じ籠もって耽溺していたのではファンの自己表出にならないのか。群れるのがファンの証なのか。春樹自身がノーベル文学賞を貰う貰わないとは無関係に自分は書くのだと言っている。賞の絶対的権威付けなどしていないのである。

 が、村上春樹はテレビで自分が《小説家》であることを前提に「小説家は・・云々」と何やらノタマッテいた。私は自分を《家》付けで称する人間は思い上がっているように思えて余り好きではない。《自称政治家》がいい例だ。自公民その他の自称政治家達は政治を生業としている単なる👻《政治屋》に過ぎない。私の理解では《・・・家》というのは他者を敬意を込めて論じるときの呼称だ。👻😱🗿👙👽🚀🐳。

by musasinokosugi | 2015-10-09 01:42 | 時事

『言・美』の世界から。

 吉本隆明著『言語にとって美とは何か(略称言・美)』は楽天ブックスにもあると思う。(←失礼。今探したら無かった!が、アマゾンには2冊あった。w)角川文庫からも出ている。まだの人には是非ともお勧めしたい文学論の著書である。小説等文学作品に限らず音楽や映画にも応用の効く優れた著作だと私は思っている。
 それでどういう内容かというと、元々は理系の出身である著者が書いた本であるから、X軸Y軸の平面座標に各文学書を配置してしまうことを提案しているのである。この提案が画期的かどうか私は知らないが、私の出会った初めての文学論だった。彼は生涯を通して実にいろんなことをやらかしてくれた人で(笑)私は何もかも彼の主張に同意する人間ではないが、私が大きな影響を受けた人間の一人であることに間違いは無い。詳しいことは冒頭にリンクしたウィキペディアへ行けば有難いことに相当詳しく書いてくれている。w

 それで、吉本の設定はあくまで『平面座標』なので、これにもう一つZ座標を加えたら立派な(?)『空間座標』になるのではないかと、私は夕べふと思ったのである。
 ではそのZ軸には何を持って来るのかというと、私の考えでは『世界性』がいいのではないか。w
 ここに『世界性』とは『社会性』と言い換えてもいいし或いは『翻訳可能性』でもいい。『他言語化への可能性』でもオッケーだ。私はこれらを全部ひっくるめて『世界性』と仮に名付けたのである。吉本が苦手としていた(と言うよりは出来なかった)『多言語化』即ち外国語への十全たる翻訳の挑戦である。
 考えてみて欲しいのは、吉本が「この二人さえ読んでいれば用は足りる」とした両村上(即ち村上春樹と村上龍)にしても欧米で広く読まれているのである。「この小説は是非母国の人間にも読ませたい!」と切望する多くの人たち(ガイジンサン)がいてこその『世界性』獲得なのである。これはマンガでもポップスでも同様だ。
 あの大江健三郎にしても世界各国語に翻訳されたからこそのノーベル文学賞受賞だったのではないか。

 英米の覇権が長期に亘っている関係で今『世界語』と呼べる言語は英語しかない。スペイン語でもフランス語でもロシア語でも中国語でもなく英語なのである。学者が拵えたエスペラント語などは、政治も経済も何も絡んで来ない「学術的」「趣味的」サークルの言語でしかないだろう。いったいどれだけの人間がこのエスペラント語を日常使って生活しているのだろうか?
 M・フーコーの『言葉と物』(1965年)の日本語への翻訳に5年も10年も(?)かかったように、詩的イマージュや暗喩に富んだ著述はことほど左様にプロでも翻訳が難しいのである。私にしても英語の俳句などを見るにつけ「どうしてこんなのが俳句なの?」といつも思っていた。w
 ということで、翻訳可能か不可能か知らないが、私たちもガイジンさんに良くわかる日本語を使いたいものである。
d0136282_14101914.jpg
d0136282_1410385.jpg
d0136282_1494883.jpg
d0136282_1493374.jpg
d0136282_1491783.jpg



by musasinokosugi | 2014-05-16 14:10

われらの時代ってか。

d0136282_16263294.jpg

*『硫化水素自殺』って何だろうと思って検索したら、普段私の行かない2チャンネルへ行けばかなりの知識が得られるということがわかった。詳述するのも何だから省略するが、そこで思い出したのが、大江健三郎の昔の小説=『われらの時代』である。ストーリーその他はすっかり忘れてしまったが、その終わりの部分に、我々の時代というのは『その気になれば』幾らでも自殺の方法があるじゃないかということが矢鱈強調されていたことは覚えているのである。例えば入線して来る電車や交通量の多い道路への飛び込み自殺とかが例示されていたように記憶している。

 交通情報でときどき『**線は只今人身事故で上下線とも不通になっています』などと流されることがあるが、あれはその線で飛び込み自殺があったということだろうか。

 マンションなど共同住宅高層階からの飛び降り自殺で、たまたま下を歩いていた人が巻き添えを食ったというニュースもときどき見る。 いい迷惑だが、自殺しようとする人が下を歩いている人のことにまで気をつかうということがいったい可能かどうか、私にはわからない。

 人間の命を人為的に絶つということは『その気になれば』比較的容易な行為で、虫ピン1本、爪楊枝1本あれば簡単に自殺~他殺出来る理屈であるが、我々は普段健康で文化的な(かどうか)日常を送っているから通常そんな気は起こさない(はずである。汗。)  

 私はあと数年で還暦を迎える団塊の世代の一員だが、まだやりたいこともいろいろあるからして(あちゃ)自殺する気はないし、もっち殺されるのも事故死するのもお断りだが、一部の若い人たちが「死にたい」「今すぐ消えてしまいたい」「どうせ死ぬんならいつ死んでも同じでしょう?」「生きていてもいいことなんかない」・・etc.と言い募ってもそれらの一々に正当正確に説得力を持って反論することは多分出来ないだろう。
 確かに今は夢も希望もないような事件やニュースが多過ぎる困った時代なのである。

by musasinokosugi | 2008-04-27 16:31 | 時事